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会津慶山焼 香山窯やま陶 曲山靖男さん

絶やさぬ文化の火
会津慶山焼 香山窯やま陶 曲山靖男さんの物語り
四百余年前、慶山の地にて生まれた慶山焼
一度は途絶えたその文化だが、
今再び、たった一軒の窯元がその火を守っている

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絶やさぬ火、文化を繋ぐ

「会津慶山焼」 伝承の物語り

昔むかし、遡ること四百余年、会津若松は、
東山・慶山の地にて、ひとつの文化が生まれた。

「会津慶山焼」。

文化的にも、経済的にも恵まれた、会津若松という城下町にあって、
同時に、四辺の自然の恩恵も、なお豊かに―。

そんな中、会津の伝統文化として、しかと地歩を築いてきた
「会津慶山焼」だが、第二次大戦を境に、忽然と、その姿を消す。

一度は失われた、「会津慶山焼」。

しかし、志ある陶工の熱き想いの元に、再興され―、現在、
ただ一軒の窯元(かまもと)が、その火を守っている。

この窯口より、未来に向けて語られる、
「会津慶山焼」、伝承の物語り―

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用即美

日用の中に、美を添えて

会津盆地の南東に位置し、会津若松の市街ともほど近い、慶山の地。

適度に粘り気があり、可塑性(かそせい)も高い、良質な粘土を産出するこの山は、
まさに、作陶するに適した土地。

土地の恵みを活かしつつ、日常使いの器を焼き続ける―、

その「会津慶山焼」の“思想”は、気持ちの良いほど、一貫している。

―「用即美」。

虚飾(きょしょく)を削ぎ落とし、日用の中の美を、無心に求む。

轆轤(ろくろ)、手捻(てびね)り、欅(けやき)の灰釉(かいゆう)、
と、伝統の技法を一徹(いってつ)に守り続ける「慶山焼」。

無闇に主張しすぎることなく、あくまでも黒子として、
日常にささやかな美を、添える。

土は素朴に香り、発色はどこまでも、天然自然。
その“在り方”は、慎ましやかにして、凛然(りんぜん)と―。

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御城の瓦より興り

慶山焼、その歩み

文禄元(一五九二)年―、会津領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)公により、
近世城郭の普請が新たに着手され、その翌年、天を衝(つ)く、壮麗な天守が落成。

かつての「黒川城」は改められ、“七重ノ殿守”「鶴ヶ城」が、会津の地に、立った。

城には、大量の瓦が葺(ふ)かれる。

そこで、氏郷公は、九州の唐津から陶工を招致し、
慶山に見出した良質な土で、瓦を焼かせた。

ここに、「会津慶山焼」は、興った。

築城が終わると、この新興の窯は、屋根瓦から、茶器などへ、
その制作の場を、“日用の器”へと移し―。

そうして、柔軟に時代の求めに応じながら、「会津慶山焼」は、
御用窯として、戦前まで、営々と、その命脈を保ってきた。

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慶山焼の名を負うて

背負う者、香山窯やま陶

開窯(かいよう)以来、生活の器として愛されてきた「会津慶山焼」だが、
先の世界大戦の後、三、四ヶ所残っていた窯元が、すべて、途絶えてしまった。

終戦直後の日本においては、まずは、食べることこそが、
人びとの関心事の第一だった。器よりも、手づかみの食料―。

文化とは、つくづく、「生」が保証された上で、はじめて、存在しうるものだった。

それから、日本人は必死に、きょうを生きた。
そうして、“戦後”が終わり、日本は見事に、復興を果たした。

その中で、文化的な豊かさを、取り戻す気運が興り―。

そうして、昭和四十九(一九七四)年、ある新興の窯が、
寺社に遺された文献を頼りに、「会津慶山焼」というひとつの文化を、甦らせる。

その窯の名は、「香山窯やま陶」。

「慶山焼」の看板を、使命感と夢、ふたつながらを抱きつつ、
己(おの)が背(せな)に、しかと負うて―。

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伝統とは、守るもの

陶主・曲山靖男、窯に生き、会津を想い

一度は途絶えた「会津慶山焼」の窯に、 再び火を熾(おこ)した、
「香山窯やま陶」の陶主・曲山靖男(まがりやまやすお)さん。

窯を興す以前に、普通の務め人として、観光業に携わってきた曲山さんには、
会津の町に資することへの想いが、まずあった。

子どものころ、通学路の辻々に溢(あふ)れていた、
轆轤(ろくろ)回しに、鍛冶や機織(はたおり)の響き。
その“ものづくり”の気配を、思い出して―、

そんな「会津慶山焼」の盛時を、 そして、
会津若松の活況を、甦らせたい。

火を絶やして久しい「慶山焼」を想い、曲山さんは決意する。
このまま、会津の尊いひとつの文化を、
人びとの記憶の中からなくしてしまう訳には、いかない。

「会津慶山焼」の器は、慎ましい。 慎ましいからこそ、
いつも傍らに置いておける。そんな、 “日常の友”となり得る、愛すべき「慶山焼」。

曲山さんは、この親しみやすい「慶山焼」という文化を、
会津若松を元気にする、貴重な観光資源と見なし、
外へと大きく拡げ、また、次代へと繋げていく―。

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観光と感動

会津観光の、みらい

曲山さんは、この「会津慶山焼」という文化を、 “伝統産業”という、
「箱庭」の中から掬(すく)い出して、 “観光”という、広い「世界」の中に置いてやる。

観光する”とは、旅人が、 食や文化、そして、歴史や人などといった、
土地の抱えるものの総体と、直(じか)にふれあうこと―。

その土地は、日常と地続きで、 でもそこには、非日常の驚きや感動に
満ちており、 旅人は、それらを自分の日常に持ち帰ることができる。

そう、感動を与えてくれる「場」との交流それ自体が、
旅人にとっては、“観光”そのもの―。

だからこそ、曲山さんは努力する。 店を年中無休とし、
職人とふれあえる体験工房も始めた。

旅人が、それらのふれあいを通じて心動かして、
「慶山焼」から受けた感動を、 会津観光の良い思い出として、
地元に持ち帰り―、

そして、また別の誰かを連れて、会津に帰ってきてくれる。
感動が共鳴し、共鳴が繰り返されて。

それが、曲山さんが思い描く、会津観光の、みらい。

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師と弟子の、人間同士の想い合い

未来を担う、たいせつな「家族」

会津の明るい未来を描くため、 再興させた「会津慶山焼」だが、
再び大きな危機に見舞われることとなった。

―二〇一一年の、あの震災。

昭和十六(一九四一)年生まれの曲山さんは、 先の世界大戦を知っている。
あの原発の事故を見て、思わず、涙がこぼれた。

震災後、会津の町を歩く観光客の姿は、激減した。

経営は、もちろん苦しくなったが、 しかし、曲山さんは、
弟子を誰ひとり辞めさせなかった。

将来、「慶山焼」という文化を担ってくれる弟子たちは、
たいせつな“同志”であり、 そして、何より、かけがえのない“家族”なのだから。

文化の未来を描くのは、人。 その人を育てるのも、やはり、人。

そして、さらに詮(せん)ずれば、師と弟子だって、人と人。

そこにあるのは、心からの素直な敬意、人間同士の、想い合い―。

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伝統と観光の共存

「慶山焼」は、次代に浩がる

「崩してはいけないこと」と「時代に沿うこと」―、その二極を確(しか)と捉えて、
曲山さんは、「会津慶山焼」の文化を、次の世代に伝承していく。

今を暮らす人びとから愛される、そんな“生きた文化”であるために、
堅持すべきは堅持して、革新すべきは革新する。

「会津慶山焼」の伝統を絶やすまいと、日々、無心に土を捻(ひね)り、
轆轤(ろくろ)を回し、火を焚いて―、そして、少しでも多くの方に、
会津を“観光”してもらおうと、全国を廻り、会津の魅力を訴え続ける。

そんな、“職人”としての生き様と、会津の“観光”への願いを、
曲山さんは、後生(こうせい)に示してきた。

そうして、必死に蒔(ま)いてきた種は、いつしか旺然(おうぜん)と芽ぐみ、
今や、次代の「会津慶山焼」を担う若者が育ちつつある。

震災を超え、親から子へ、あるいは師から弟子へ、曲山さんの想いは、
大きく浩がり、「会津慶山焼」の、そして「会津」の未来を、豊かに描く―。

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