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ヤマロク醤油 山本康夫さん

木桶醤油を次世代へ
ヤマロク醤油 山本康夫さんの物語り
創業150年の「ヤマロク醤油」。
その五代目・山本康夫さんは、営業方針の転換により、
不振だった売上を飛躍的に伸ばすことに成功した。
今では醤油作りだけでなく、醤油蔵で使う桶作りまで担っている。
そこには、木桶醤油への深い思いがあった。

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「醤油屋は継がんでええ」

ヤマロク醤油四代目の心境

「醤油屋になろうという気持ちは、一切なかったんですよ」

木樽を使った醤油づくりにこだわる小豆島の醤油屋「ヤマロク醤油」。
その社長である山本康夫さんの口から、意外な言葉が漏れた。

高校卒業後、大学進学で小豆島を離れた山本さん。
醤油屋を継ぐ気は全くなかったけれど、
就職活動を行うのが億劫だったため、
先代である四代目に醤油屋を継ごうかと打診したという。
ところが、見事に断られたそうだ。

「俺が『醤油屋継ごうか?』って言ったら、
親父が『継がんでえぇ』って言ったんですよ」

儲からず、給料を払えないので、継ぐ必要はないという。

そのとき、四代目は自分の代で醤油屋をたたむつもりでいた。

ヤマロク醤油と言えば今、メディアでひっぱりだこ、
醤油通の間では知らない人はいない有名店だ。

店の前には観光バスが押し寄せ、日々大勢の人で賑わっている。

そんな現状からは想像できないが、
山本さんが社長に就任した当時は、一週間のうち1回、
タクシーに乗った観光客が訪れる程度と客足は少なかった。

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本物の味を伝えたい

五代目を継ぐ決意

四代目に就職を断られたものの、
「小豆島に帰りたい」という気持ちがあった山本さん。
進学で郷里を離れ、都会で暮らすことで、
あらためて小豆島のよさがわかったのだという。

「海も近いし、山も近い。
食べ物もおいしいし、交通の便もそう悪くない。
都会は人が多くて、空気も僕の肌に合わなかった。
小豆島は本当にリゾートだと思いますよ」

大学卒業後、小豆島の加工食品会社に就職し、
営業として大阪や東京を回った。
商品を販売する中で、
価格優先の流通事情を目の当たりにした山本さんは愕然とする。

「営業先の小売店がなかなか、味をみてくれないんですよ。
重視するのは、価格とボリュームとパッケージデザイン」

安くて、量が多く、おしゃれなパッケージ。
けれど、中身は添加物だらけの商品がズラリと並ぶ店。

山本さんの心の奥で、
「こんなところに、売りに行きたくない」
という感情がふつふつと湧き起こってきた。

そんなとき、全国各地の「こだわり商品」を扱う東京の店舗で、
四代目が作ったヤマロク醤油が置かれているのを見つける。

「それで、もしかしたら売れる可能性があるかなと思ったんですよ」

本物の味をわかってくれる人に、
ヤマロク醤油を販売したらどうだろう。

「儲からないから継がなくていい」──四代目はそう言った。
だったら、儲けるために商品を売ればいいじゃないかと、
山本さんは率直に思った。

山本さんは加工食品会社を辞め、
ヤマロク醤油を継ぐことを決意した。

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店の現状、甘くない現実

「このままでは飯が食えん!」

味がよくて、みんなが喜んで買いたがる商品を作り、
世に送り出したいと思い、ヤマロク醤油五代目を継いだ山本さん。
けれど、現実は甘くはなかった。

「店の決算書を見たときにね、
親父が言っていたことの意味がわかったんです」

帳簿に目を通した山本さんは、
利益を得られないことが明確にわかり、
「これでは、飯を食えない」と思ったという。

ヤマロク醤油の規模を考えると、
営業経費は出せないし、出張費も出せない。

無理して営業活動を行い、なんとか注文を受けたときも、
醤油屋をたたむつもりでいた四代目はやる気を失っていて、
仕事がはかどらない。

「親父の腰が重くて、なかなか瓶詰めをしないんですよ」

営業に行っても無駄だ、
何をやってももう無理だと嘆きたくなる一方で、
山本さんは、「どうにかせないかん」とも思った。

なんとかしなければ、飯が食えない。
ピンチに陥ったとき、山本さんにスイッチが入った。

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営業方法の転換

お客様に、自ら足を運んでもらう

「売りに行くのではなく、
買いに来てもらおうって思ったんです」

営業担当者が毎日、小売店の注文を取りに行くという方法は、
小規模生産店のヤマロク醤油には限界がある。
だから、売りに行くのは止めて、
消費者であるお客様に買いに来てもらおうという方針に切り替えた。

お客様にダイレクトメールを送り、
店に足を運んでもらえるようにPRを開始。

中古の陳列棚をヤマロク醤油の店舗に運んで塗装をしなおし、
陳列棚を作った。
社員や小売業者ではなく、
お客様にとって各種商品を見やすいように並べ、
1本からでも商品を買いやすくした。

営業方法の転換が功を奏し、少しずつ口コミが広がっていく。
いつしか、ヤマロク醤油の店舗は大勢のお客様で賑わうようになっていた。

「観光バスがひっきりなしに来て、
以前の半年分の売り上げを1ヶ月で売ったときもありましたよ。
そのときは、5kgくらい痩せました」

ヤマロク醤油の知名度は一気に上がり、
営業に行かなくてもお客様が来てくれるようになったのだ。

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未来への危機感

桶職人の後継者に

「どうにかせないかん」という思いで、
ヤマロク醤油を勢いづかせた山本さん。

その後、再び「どうにかせないかん」
という事態に直面する。

売り上げが伸びたヤマロク醤油は、
2009年に新桶を9本発注した。
その際、桶を製造する職人たちに、
「ワシらもいつまで仕事できるかわからんで。
もう、跡継ぎいないからな。自分の桶は、自分で直せ」
と言われたという。

「桶屋さんがその1社しかなかったので、
跡継ぎがいないと今の職人さんたちが辞めた後は、
桶を作る人がいなくなるんですよ」

桶は100年以上使えるので、自分たちの時代は問題ない。
けれど、孫の時代は、新しい桶を作ることができなくなる。

「これは、マズいやろうって。桶は3人いないと組めないから、
最低でも3人の桶職人が必要なんですよね」

そこで、山本さんは考えた。
「友だちの大工2人を誘って、
3人で桶屋に修行に行くことにしたんです」

2012年に再び新しい桶を発注し、師匠に教えてもらいながら、
自分の桶を自ら作り上げることにした。

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味の記憶をつなぐ

すべては子や孫の代のため

「自分が生きている間はまだ使える。
でも、せっかく跡継いで修行したのに、
次の子どもや孫の代につながらない。
桶が使えなくなるのをわかっていながら、
醤油屋やれなんて言えないですよ」

「『子や孫の世代に本物の味を伝えます』。
これが、うちのモットーです。
すべての行動はここにつながります」

先祖代々受け継がれてきた伝統の味、
伝統の製法、味の記憶を紡いでいくためには、
前を向いて行動するしかないのだ。

山本さんは、志を同じくしている人から依頼があれば、
木桶の制作販売も行っている。

木桶でお醤油を作っているところに、
一緒に桶を組みませんかと声をかけ、
桶の構造や制作方法を教えることもあるという。

「自分で作った桶で造った醤油への思い入れって
半端なものではなくなります。
よい品を、自信を持って販売できる」

木桶で仕込む魅力を伝え、
おいしい醤油を作ってファンを増やす努力をする。
そうして、みんなで市場を広げていけたらいい
というのが山本さんの思いだ。

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醤油職人へいざなう

蔵の中の菌たちのささやき

「今、桶の箍(たが)となる竹を
息子たちと一緒に取りに行っているんですよ」

竹は山まで取りに行くという。

「息子たちにね、
お前たちが取ってきたこの竹で
編んだ箍で閉めた桶が醤油を作りよるんだからな、
と話しながら作業をしています」

醤油の仕込みや、桶作りの様子を見せながら、
山本さんは自分の息子たちに、跡を継ぐように話す。

「子どもが小さいときからずっと、
『跡を継ぐんだぞ』って耳元でささやき続けていますよ」

幼子の耳元でささやき続ける山本さんの姿を想像して、
ほほえましい気持ちになった。

ささやき続ける……といえば。
「夏になるとヤマロク醤油のもろみ蔵に棲む菌たちが発酵して、
その音がささやきのように聞こえるんだ」と山本さんが教えてくれた。

100年以上前の明治初期に建てられた蔵の中には、
百種類以上もの酵母菌や乳酸菌たちが暮らしている。

山本さんは、四代目から醤油職人になるようにとは言われていない。
けれど、紆余曲折ありながら、結局、醤油職人になった。

もしかしたら菌たちは、
自分たちを生かしてくれるヤマロク醤油の後継者として、
小豆島を愛する山本さんを選び、耳元で
「醤油作りをやりなさい、桶作りをやりなさい」
とささやき続けていたのではないだろうか。

梁や土壁、土間の間、そして山本さんたちが作った新桶の中から、
菌たちは未来の後継者を育成するため、
今日もささやき続けているかもしれない。

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