アサヒタクシー 倉田道広さん
この町の誰かを、この町のどこかへ今日も運ぶ。
鞆の浦の観光、
承ります
「アサヒタクシー」の物知りドライバー
福山駅からのお客さんだろうか、
それとも地元住民を乗せてだろうか。
小さな港町・鞆の浦では、時折タクシーが
走っているのを目にする。
バス停「鞆の浦」から南へ歩くと
「景勝館 漣亭」すぐ近くに、爽やかなシアンブルーの
看板が見えた。白抜きの文字で「アサヒタクシー」
「観光めぐり承ります」とある。配車場とおぼしき
スペースには、白いタクシーが1台だけ停車していた。
昭和の懐かしさが、そのまま残っていた。
その隣、年季の入った事務所でゆったりとくつろぐ
白髪のおじさんが倉田道広さんだ。白いワイシャツに
エンジ色のネクタイ、グレーのスラックスという出で立ちが、
どことなく哀愁が漂っていて、なんだか親しみやすい。
長年、鞆の浦の人々の足として活躍してきた倉田さん。
ちょうど待機中だという昼下がり、僕は少し鞆の浦のことについて
聞いてみようと思った。
地域にただ1人の
タクシー運転手
鞆の人なら声だけでわかる
「昔はアサヒタクシーにもオバちゃんが3人おってね。
彼女らは、かかってくる電話の声を聞いただけで、
どこの誰だかがわかったんよ。僕も自然と覚えましたね」
今では倉田さんも、鞆の浦の人なら電話の声だけでわかるそうだ。
それだけ長い年月、倉田さんは地域と密接に関わってきたのだろう。
「鞆に来たばかりの頃、オバちゃんが食事に行ってる合間に
電話がかかってきて。出たら相手が名前も場所も言わないで
切っちゃうんで困ったことがありましたよ。
仕方がないからまたかかってくるのを待ってね」
昔の失敗談を懐かしそうに語る倉田さん。
ずっと前までアサヒタクシーには、運転手が6人いたそうだ。
でも今は倉田さん1人だけ。鞆の浦が観光客で賑わう5月の
鯛網では、「ひと月で70万ぐらいの売上があったね。
その時期は福山よりも良かったよ」と、倉田さんは言う。
福山に帰らなかった理由
のんびりしているのが鞆の浦の魅力
倉田さんが鞆の浦のアサヒタクシーにやって来たのは、
30数年も前のこと。もともとは福山市内でドライバーを
していた。当初は入院したドライバーの代わりを
1ヶ月務めるだけだったはずが、気づいたら今の今まで
鞆の浦に住んでいた。帰ろうと思えば帰れたのに、
なぜか居ついてしまったという。
そんな不思議な魅力が鞆の浦にはあるのかもしれない。
鞆の浦はどんな町かと尋ねると「のんびりしている」と即答した。
「僕がここに来た時は、魚売りのおばさんが乳母車を押して
歩いていたんだけど、通りますよーとクラクションを鳴らすと、
おばさん達は乳母車をその場に置いて、自分だけ歩道に避けて
待っちょるん。せやけ、僕が一旦車から降りて、乳母車を歩道に
寄せてから進まないといけんくて」こんなことが日常茶飯事だったそうだ。
少し迷惑な話のような気もするが、笑いながら話す倉田さんは、
そんなのんびりした鞆の浦が大好きなのだろう。ゆったり時間が流れる、
この町らしい話だ。のんびりしているのは人間だけではない。
「人間様がそういう生活をしとるからか、犬ものんびりしとるんよ。
天気のいい日は道の真ん中によく転げとってね。
車がきてようやく、よっこらしょと起きるんだ」
倉田さんによると、鞆の浦に来てから売上に追われなくなったそうだ。
「ここはのんびりしているから、なるようにしかならんからね」
きっと気持ちに余裕があるから、こんな風に言えるんだろう。
鞆の浦の酔っ払いたち
港の職人と酒
タクシードライバーをしていると、時に酔っ払いや
少々困りもののお客さんに出会うこともあるだろう。
「昔は潮待ちで朝鮮通信使や北前船も鞆に来ていたんだけど、
一般の船が来始めて以降、飲み屋街が栄えたんよ」
今でこそ、夜になると静まり返る鞆の浦の町。倉田さんは、
かつて賑やかだった頃の様子を教えてくれた。
「この先に鍛冶町いうのがあってね。昔は造船のための
材料を作る職人や、ブロック塀へ通す鉄筋の棒を打つ
鍛冶屋が働いていた。せやけ、当時はよく鍛冶町あたりへ
向けて酔っぱらった職人たちがタクシーに乗ってきたよ」
倉田さんは鞆の浦のかつての姿に思いを馳せながら、
懐かしそうに語る。ブロックの中へ通す鉄の棒は芯鉄と呼ばれ、
船の廃材をボイラーで溶かして作られる。
芯鉄は火で熱くなっているため、鍛冶屋らは大きな扇風機を
背負い、どんぶりに塩と氷水を入れて、脱水症状にならない
ようそれを飲み飲み仕事をしていたそうだ。
「そういう仕事しよる人は、昭和48年頃までいたんよ。
その人たちが昔は酒屋でずーっと飲みよるんですよ、ハシゴして。
それで家に帰るんだけど、家帰ってもまた飲むよね。
酒癖の悪い人は鞆にも大勢おったよ。
港町だから気性の荒い人もおった。
けど今はそういう人いなくなったね。
今はみんな肝臓を愛でてるよ(笑)」
鞆の浦の人々と共に年を重ねてきた倉田さんにとって、
この町自体が、人生そのものなのだ。
町に残る花の香り
妓楼を偲ぶ面影
鞆の浦では年に一度、花魁に扮した女性たちが町中を
練り歩く「花魁絵巻」が名物となっている(11月上旬頃)。
「ありそ楼(ギャラリー)の三藤さんが仕掛け人やわ」
さすがは物知りなタクシー運転手だ、何でも詳しい。
「素人さんでも2万円ぐらいで着付けをさせてくれるんよね。
毎年、日が近くなると若い女の子が歩く練習しとったよ。
足を8の字に描いて。着物を前で結んで大きいんが後ろへ
回すから重たいでしょ。楽しそうですね」
そんな話が出たこともあり、話題はいつしか遊郭へと
移り変わっていた。かつて、鞆の浦の対潮楼の南側には
遊郭が存在していた。今でも対潮楼へと続く石段には、
「遊郭地」と刻まれた石柱が残っている。
先述の「ありそ楼」は、元妓楼だった建物を修復した利用している
ギャラリーで、今もその佇まいからは当時の面影を偲ぶことができる。
かつて源氏の追撃から西へ逃亡した平氏は、高位女官である
上臈(じょうろう)を鞆の浦へ残して行った。
一説によると、遊女を表す「女郎」という言葉の発祥は
鞆の浦だそうだ。彼女たちは鞆の浦で遊女として生き、
独自の文化を発展させた。
現代に蘇った鞆の浦の花魁道中は、新聞などの全国メディアにも
取り上げられている。その陰で倉田さんは、訪れる観光客の
足として町を走り、イベントを支えている。
支え合って生きていく
地域の人を乗せて、これからも
坂の多い鞆の浦では、高齢者はもとより足の
不自由なお客さんは苦労することが多い。
「この前、70ぐらいの女性が4人乗ったんやけど、
1人足の悪い人がいてね。そこに資料館あるろ。
資料館までの坂を登るのに、僕が車椅子を
借りてきたことがあったね」
鞆の浦民族資料館は少し急な丘の上にあるため、
足の不自由なお客さんの負担を減らそうと機転をきかせたのだ。
いつもお客さんへの気遣いを忘れない倉田さん。
元気そうに見えるが、最近は少し体調が優れないようだ。
「1日用事があって休んだりするでしょ。
ほったら近所のお姉さんなんかから『調子でも悪かったん?』
とか聞かれる。だから『いやいや別にー』とかって。
この前手術で切腹したんですよ。それがあるから余計に心配されて」
深刻に思える話も、冗談めかして話す倉田さん。
少し心配だが、倉田さんが町の人を支えてきたように、
町の人たちも倉田さんを気遣ってくれている。
これからもタクシーの運転手として町の人を支え、
そして支えられながら鞆の浦を走り続けてほしい。