村上製パン所
何十年と変わらぬ味に、ホッと癒される
あなたの町に、ノスタルジーはありますか?
愛されて六十五年
昔ながらの町のパン屋さん
山と海に挟まれた鞆湾の西側。 風情ある町家が並ぶ細い通りに、
一軒のパン屋さんがある。
赤茶の枠で囲われた浅黄色の看板。 黒みを帯びた木づくりの町家。
緑色の日除けとガラスの引き戸。
その中に見える年代物とおぼしき陳列ケース。
そのたたずまいは周囲の家々と調和して、
見る人に懐かしさと安心感を与えてくれる。
「村上製パン所」
六十五年もの間、鞆の浦の人々に愛され続け、
町のあちこちの売店で、 レトロな「ムラカミ」のパッケージを
目にすることができる。 学校給食に指定され、
鞆出身者のソウルフードにもなっている。
これはそんな、町のパン屋さんの物語り。
この餡パンがいいじゃろ
気さくで親切な村上夫妻
日よけをくぐり、引き戸をカラリと開けて中に入ると、
満面の笑みを浮かべた割烹着の奥さんが奥から出て来て、
「こんにちは、いらっしゃーい」と迎えてくれる。
ガラスの陳列ケースの中には、キングスターと書かれた食パン、
バターロール、餡パンにうぐいすパン、ねじりパン、その他色々。
中にはアブラパンと書かれた不思議な商品も―。
どれにしようか、決めかねていると奥さんが、
「このアブラパンは、六十年代からずっと同じ、
昔ながらの揚げ餡パンでね」
と、親切に説明してくれる。御主人の村上さんも工場から出て来て、
「いらっしゃい。ああこの餡パンは宮崎駿さんが、
色々食べ比べて結局これに落ち着いたんじゃ」
とこれも笑顔。
そう。ここは村上さん夫妻(と、その娘さん)が
中心になって切り盛りする、家族経営のパン屋さんなのだ。
六十五年の歴史
きっかけは戦後の食糧難
村上製パンのはじまりは六十五年前。それ以前の小売業時代から使っていた
店舗部分は、すでに築百年!今も手入れをしながら大事に使い続けている。
戦後の混乱期、食糧難の時代に先代が、手軽にお腹を満たせる食べ物を作って、
鞆の浦の人達に食べてもらおう。 そう考えてパン作りを始めた。
「その頃は食べる物もあまりないから、
それこそ作れば作っただけ売れたそうですよ」
奥さんはそう言って笑う。生きるために食べる――。
そういう、人間としての基本から始まったパン作りは、
二代目である今のご主人に受け継がれ、
いつしか六十五年の歴史を紡いでいた……
心とお腹を優しく満たす
変わらぬスタンダード
村上製パンが作るパンには、バゲットとかカンパーニュとか、
最近はやりのものはない。
昔ながらの食パンの他は、餡パンやクリームパン、ドーナッツといった、
甘い菓子パンが中心だ。
試しにクリームパンを食べてみると、生地は柔らかく、噛むと甘みの出る、
そう。懐かしい給食のコッペパンの味!
一方、クリームは甘さ控えめで食べやすい。
「うちはこういうのしかできなくてね」
と奥さんは言うけれど、こういう懐かしい味わいは、
やっぱり皆に愛される。
鞆の浦出身の人が、ソウルフードとして熱く語り、
最近は雑誌に出たりして、観光客も増えている。
その理由はまさしくこの、スタンダードな美味しさにあるのだろう。
朝一番早いのは
暗いうちから動く工場
作り立てのおいしいパンを、毎日用意するのはとても大変なことだ。
朝一番早いのは パン屋のおじさんという歌があるけれど、
これは本当のこと。
御主人は、午前三時には起きて店の奥の工場に入り、機械を動かして
一日分の生地をこねる。それを寝かせて発酵させ、切って形を
仕上げるのが朝六時頃。その頃には奥さんも娘さんも加わって作業をする。
再び寝かせて焼き上げ、店頭に並ぶのは十時。
これを毎日繰り返す。
「パン作りが本当に好きじゃないとできませんね」
そう言ったら、
「親の代からの家業だからねえ」
と、気負わない、ごく自然体の返事が返ってきた。
地に足付けて着実に
鞆の浦に村上製パンあり
鞆の浦の人達や観光客に愛され続ける村上製パン。この地で「ポニョ」の
ヒントを得た宮崎監督が、足繁く通ったことでも知られている。
その人気の秘密は、スタンダードなラインナップと、
昔ながらの素朴な味わいにある。
その味を作り出しているのは、気負わず、自然に、
「家業」として仕事に打ち込む、 村上さん一家の日々の努力だ。
地に足の付いた普通の仕事こそが、人の心を引きつける物を生み出せる。
それは、港町としてごく自然に発展した結果、 譬(たと)えようも
ない魅力を持つに至ったこの町のあり方と、どこか相通じるように思われる。
朝四時。ゆるやかに湾曲した鞆湾の一角で、
今日もパンをこねる機械の音が微かに響き出す……