御塩 塩屋浪花堂 蒲敏樹さん

それを40年ぶりに復活させたのは、
青く輝く海に魅せられた、ひとりの男だった
想いの火、新たに灯し
小豆島 「塩」の物語り
いのち育み、食を彩る、「塩」―。
瀬戸内海に囲まれた小豆島は、元々、塩をよく産し、
その良質な塩は、江戸期には、幕府の献上品ともなった。
しかし、その後、塩を材料として、より収支の見合う、
醤油業、加工業へと、産業の中心が移り変わり、
醤油や佃煮づくりが、大きな発展を見ることになる。
そうして、時代とともに、島の塩業の火は、
いつしか消えたかに見えたが、
しかし、今日、ある山国からやって来た青年が、
情熱を傾け、夢を抱き、40年の歳月を超えて、
小豆島の塩業に、新たな“いのち”を、吹き込んで―、
島と人の“想い”の結晶、小豆島「塩」の物語り。
波間に咲いた白い花
島がくれた、やさしいお塩
小豆島には、現在、1軒の塩屋がある。
40年ぶりに、島での塩づくりを復活させた、「塩屋 波花堂」さん―。
その塩小屋の前には、表札代わりに、ブイがぷらり、
そこに屋号が踊って、いよいよ豊かに、潮の香(か)が立つ。
「波花堂」さんは、小豆島の海水を使って「塩」をつくる。
その「塩」を舐めてみると、ほわと甘みすら感じさせる、やさしい“からみ”。
この、純度が高く、素朴な味わいの「塩」は、どんな料理にも合うけれど、
まずはシンプルに、ごま塩のおにぎりを―。
手づくりの「塩」をふり、人の手で、ぎゅっと握って、
その自然の味わいが、ああ、おいし。
少年の感動
小豆島の海に呼ばれて
一度は途絶えた小豆島の「塩」づくり。
その島の塩業を、40年ぶりに復活させ、
日々、釜の前で汗を流す、「波花堂」の蒲敏樹さん。
そんな蒲さんと「塩」との出逢いは、中学時代に遡る。
夏休みの科学作品展で、「塩」を研究し、
海の豊かさに、岐阜の山で育った少年は、魅せられた。
長ずるに及んで、岐阜の外に生活の場を求め、
そうして、この温暖な小豆島に移り住むことになった。
はじめ、農業を志して移住したのだが、
蒲さんの目の前には、青く輝く、島の海が、あった。
その瞬間、少年時代に、「塩」の匂いから得た、
あの感動が、鮮やかに、よみがえり―。
そうして、蒲さんは、
この小豆島で「塩」をつくると、決めた。
台風ニモ マケズ
島の「天然塩」、再生
最初は、本当に、ゼロからのスタートだった。
奥さんと二人三脚で、浜に塩小屋を建てて、
資料などで学んだ知識だけで、とりあえず、やってみた。
もちろん、うまくいかなかった。
そして、山口の業者さんの下へ学びに行き、
勉強して帰ってきた矢先、台風で小屋が流された。
苦労は、多い。それでも、悲観はしない。
神様はドラマチックにするよねと、笑いとばしてやる。
それから、すぐに、再スタート。
小屋を建て直し、鹹水(かんすい)づくり、釜焚きの効率化を図って―。
そういった試行錯誤の末、わかったこと、
昔の人と同じやり方を、誠実に行うことの、大切さ。
そうして、「塩」をつくり始めて2年、
世に出せる良質な「小豆島の天然塩」が、完成した。
大切な人に贈るごえん
島に人に、ありがとう
「波花堂」が、今日に甦らせた、小豆島の「塩」。
そこには、蒲さんご夫婦の努力があり、
小豆島の人たちのあたたかい支えが、あった。
蒲さんを島に導いた「塩」という“そざい”があり、
そして、それを産する瀬戸内の海と、緑の島が、あった。
それらの「人と人」、「人と自然」が紡ぎ出す、
やさしい“ご縁”に、感謝して―、
この40年ぶりの、小豆島の「塩」のなまえを、
「御塩(ごえん)」と、名付けた。
蒲さんは、この「御塩」を、やさしく受け入れてくれた、
島の人たちのために、心を込めて、つくる。
ご縁で繋がった人たちへの、「御塩」による、御恩がえし。
となりに咲く笑顔のために
きみと生きる、しあわせ
蒲さんは、少年のころ、実験で味わった感動をそのままに、
「塩」づくりへの憧れを、胸に抱き続けてきた。
そうして、ご縁の糸に導かれ、
今、小豆島で「塩」をつくっている。
蒲さんは、故郷の岐阜を想い、小豆島を眺める。
そして、しみじみ、想い至る。
―小豆島も、「ふるさと」なんだな、って。
どこで生まれたかも大事だけれど、
今、ここで何をしているか、誰と生きているか―、
それを、もっと大切にしたいと、蒲さんは、思う。
そうして、視線を横に移す。
いつも、となりにいてくれる、かみさん。
かみさんに美味しい「塩」を食べさせてやりたいな。
そう、いちばんは、いつだって、この大切な人のために。
「ふるさと」の島で、かみさんと一緒に、今日も、えがお―。