鞆の浦観光鯛網
5月には、その猛々しくも華麗な様子を、
海上からつぶさに見ることができる
渡船場からはじまる、
鞆の観光鯛網
海風が颯とぼくらの間を通り過ぎた
五月末の休日、ぼくは鞆の町を歩く。
渡船場の前の県道には、多くの人たちが歩いている。
いかにも休日にふさわしい笑顔を輝かせながら、歩いている。
この人たちはみんな、鯛網に向かう人たちだ。
―「鞆の浦観光鯛網」三八〇年の伝統を今に伝える一大海上絵巻。
ぼくは、そのパンフレットの文字を覗き込み、
そして、東側の青い海に目を移す。いい天気だ。
仙酔島への玄関口である渡船場に、ぼくら観光客は集合する。
切符売り場の前は、人で溢れている。
初夏の陽気と人いきれ。渡船場は活気で沸き立つ。
海上には、すでに渡し船が二隻浮かんでいた。
海風が颯とぼくらの間を通り過ぎた。さあ、鯛網がはじまる。
出船前、仙酔島での、
のどかな光景
鯛網船団は祝祭的に飾り立てられていた
ぼくはお客さんの顔ぶれを眺める。
家族連れのお客さんや、 ツアーで来ているような団体さん、それに、
中には外国から来ているお客さんもいた。
ガイドさんが手旗を振る。それに導かれて、
第一陣は「平成いろは丸」に乗り込み、
一足先に仙酔島に向けて出発する。
海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を
模したこの黒い渡し船は、白い航跡を描いて
渡船場からゆっくりと遠ざかっていく。
船室に収まりきれずに、
甲板にまで人が溢れてきている。
ぼくは、次に控える「第二べんてん」に乗る。
「平成いろは丸」の先輩、先代の渡し船だ。
朱色と白色があしらわれた昔の和船を思わせる佇まいが、
とてもかわいらしい。
およそ五分で、仙酔島に着く。
大勢のお客さんがどやどやと下船し、
桟橋はその重さで少し浮き沈みする。
桟橋から田ノ浦海岸に向かって歩く。
途中にたくさん立てられた「歓迎鯛網」の
幟(のぼり)が、ぼくらを景気よく迎えてくれる。
仙酔島の力強い岩肌を間近に眺めながら
田ノ浦の浜辺に至ると、すでに鯛網船団が
ぼくらを待ち構えていた。
白く目に映える大きな客用フェリーも三隻、
いつでも出発できるといった格好で、
悠然と停泊している。
鯛網船団は大漁旗で、客用フェリーは万国旗で、
それぞれ祝祭的に飾り立てられている。
田ノ浦海岸にはテントが張られていて、
二百脚ほどの椅子が海に向かって並べられていた。
鯛のイラストの大看板の前では、
乙姫様とお客さんが一緒に記念撮影をしている。
「大漁」の文字を背中に染め抜いた
青い法被(はっぴ)が鮮やかに目を刺す。
その法被を羽織っている人たちは、
漁師さんか運営スタッフのようだった。
運営スタッフの中には、ずいぶん若い女の子もいた。
その一方で、顔に深い皺を刻みつけたご年配の漁師さんもいた。
見物客の中には、家族連れも多い。
小さな男の子が、お父さん、お母さんの手をかいくぐって
浜辺ではしゃぎ回っている。
ぼくがそんな光景を目を細めて眺めていると、
いつしか樽太鼓の響きが聞こえてきた。
出船前の儀式がはじまるのだ。
イエーホー イエホォー
古式をそのままに、再現される鯛網の儀式
小舟に腰掛けた漁師さんらが、
勇壮に樽太鼓を打ち鳴らす。
カンカンカンカン……
その乾いた太鼓の響きの上に、
大漁節の郷愁的な節回しが伸びやかに乗っかる。
イエーホーイエホォー
ヨイヤマカセノエイコリャ
タイリョー大漁
その大漁の祝歌(いわいうた)が高唱される中、
弁財天の使いである乙姫様が、
船へとしずしず歩を進めていく。
そうして船の上に至ると、
おもむろに「弁天龍宮の舞」を披露しはじめる。
乙姫様は、薄桃色の被帛(ひはく)を海風になびかせて、
幻想的にひらりひらり、舞う。
そして、時折、神楽鈴を鳴らす。
雅楽の幽玄な音色に混じって、
りりりんと鈴の音が響く。
みな、その華麗な舞に見とれているようだった。
しかし、その後、漁師さんと乙姫様による
「餅投げ」がはじまると、場の雰囲気は
一転してにぎやかになる。
次々と紅白餅が放られて、見物人たちはそれを求め、
わいわいと人垣を作る。もちろん、ぼくも
その人の山に混じって、ちょうだいちょうだいと手を伸ばす。
そして幸運にも、何とかひとつ手に入れることができた。
紅いお餅。
これらの一連の儀式が終わったら、ついに出船となる。
ぼくらも、浜で出番を待っている遊覧フェリーに乗り込む。
三層のフロアの内、二階と三階が客用フロアになっていた。
テーブル席も用意されていて、ゆったり座れる。
ハリャーヨイシャ!
景気のいい掛け声が聞こえてきた。
「手船」という小さな船に乗った漁師たちが、
弁天島へと漕ぎ出したのだ。
「大玉(綱霊)」という綱の神様を連れて、
弁財天に大漁の祈願をする。
弁天様へのお参りを終えると、今度は「漕出式」へと移る。
大漁祈願を済ました「大玉」を「親船」に積み込み、
鯛網船団は古式に則って、
左にくるくると三度周回する。
そうして、いよいよ船団は漁へと繰り出すのだ。
遊覧フェリー内の
見物客大移動
親船の巧みな動きは圧巻 今に伝わるしばり網の伝統漁法
鯛網船団は沖合いへと魚群を求めて進んでいく。
「叶大漁」と染め抜かれた大漁旗は雄々しくはためき、
「五色の吹流し」はカラフルな鯉のぼりのように
風にたなびいている。
その船団を追いかけるように、
ぼくらが乗っている遊覧フェリーも沖合いへと向かう。
潮風はいよいよその濃度を増していき、
肌を撫で付ける湿った空気からは、
より質感的な重みを感じるようになる。
船団を追うフェリーの中では、
しばしば見物客の大移動が起こる。
回り込み方によって、船団がフェリーの
右舷から見える時もあれば、 左舷から眺められる時もある。
だから、見物客は、あっちこっちと、
見える方へぱたぱた移動を繰り返すのだ。
小さな子どもが、はしゃぎながら甲板を、
ころころ右へ左へ駆け回っていく様は、
何とも微笑ましい。
そうしている内に、指揮船が魚群を見つけたらしく、
手旗で船団に合図を送りはじめた。
すると二隻の親船が、弾かれたように
ぱあっと二手に分かれる。
親船にはそれぞれ、一段高いところから
スピーカーで号令を発している漁師さんがいて、
独特な掛け声で巧みに船員を操っている。
親船は二手に分かれながら
「ヨーヤレ、ヨイトヤレ」
と、 網を入れる。そうして、左右に大きく膨らんだ親船は、
「エット、エットーヨーイヤサンジャー」
の掛け声と共に、再び網をしぼりつつ、 お互いの距離を縮めていって、漢字の
「人」の字のような形で舳先を交える。
そうしてから、二艘の親船は徐々に交差を解いていって、
船体を「八」の字に戻し、
それから、さらに平行へと近付けていく。
腰みのをつけた漁師さんたちが威勢良く網を揚げはじめた。
さあ、果たして、鯛はどれくらい獲れたんだろう。
網の目にびちちと踊る、
真鯛の淡紅色
親船の上は直売所に早変わり
平行に並んで網を上げる親船に、
ぼくらの乗る遊覧フェリーが近付いていく。
「エイヤーエイヤー」
「ヨーヤッタ、ヨーヤッター」
漁師さんたちの勇ましい掛け声が、
どんどん大きく聞こえるようになる。
そうして、網揚げの終わりを告げる歓呼の声を
、ぼくらは間近で聞く。
「タイリョー、大漁!」
ぼくは、フェリーの左舷から身を乗り出すようにして、
引き揚げられた網の中を覗き込む。
あ、入ってる、入ってる!
真鯛の淡紅色が、網の目の中で
旺盛にびちちと踊っている。鯛だけじゃない。
瀬戸内の種々の魚も、盛んに跳ねている。
一網千両と言われた時代は過ぎ去ったとは言え、
十分、立派に獲れている。そもそも、漁自体の迫力が、
存分に見物客を楽しませてくれている。
網揚げが終わると、親船の上は直売所に早変わりする。
すると、フェリーの中は途端に色めき立ち、
歓声がわっと沸き立つ。今回の鯛網漁の成果を、
その場で購うことができるのだ。
見物客はみな顔を紅潮させて、
次々にフェリーから親船へと降り立っていく。
掬い上げられた桜色の鯛は、甲板の上で旺盛に跳ね回る。
漁師さんたちは、その鯛をぐわっと鷲掴みにして、
それから何の迷いもなく、鋭利な手鉤で
頭部の急所をひと突きにする。
すると、鯛はビビビッとひとつ、大きく痙攣する。
そうして、「締め」の作業が手際よく完了される。
鯛は締められた後でも、しばらくはビチビチと
筋肉の反射を繰り返す。その姿からは、
生の残滓と呼ぶにはためらわれるほどの、
強烈な生命力の発散を見ることができる。
ぼくを含めて、多くの観光客には、
普段そんな光景を間近で見る機会はないはずだ。
だから、火を見つめる子どものように、みな、
どこかぽうっとなって漁師さんの「血抜き」の作業を凝視する。
漁師さんの威勢のいい「競り(せり)」の声が、
親船の上で大きく響く。そうして、見物客は、
はっと、この新鮮な鯛を買うことができるのだと、思い出す。
それからはもう、まるで景気のいい朝市のようだ。
どんどん買われていく。血抜きされ、ビニールに詰められ、
お客さんに手渡される。すごくテンポがいい。
ぼくも周りの人に倣って、とりあえず、親船に降り立ってみる。
ぐらりと結構な揺れを感じる。ぼくは近くにいた漁師さんに、
「ずいぶん獲れましたね」と話しかけてみた。
「いやあ、ちょっと潮目が悪いけえ、今日はあんまり良うないな」
漁師さんはそう答え、
それから腕を一メートルくらいに広げて、言う。
「ええ時は、これくらいのサワラが掛かるんじゃけのう」
それは豪儀だ。
それからフェリーは鯛網船団と別れを告げて、
少し周遊した後、帰途についた。ぼくは、もちろん、
鯛を一匹買った。さっき獲れたばかりの鯛を
発泡スチロールに詰めてもらい、小脇に抱えていた。
さてこれを、どうやって頂こうか。
刺身、塩焼き、それとも煮付け?
そうやって、あれこれ思いを廻らせていると、
思わず少し、つばが出た。
鯛網ガイド吉平さんの物語り
鞆の人たちとのあたたかい、ふれあい
ぼくは吉平さんに、さっそく素朴な質問を投げ掛ける。
「吉平さんは、何がきっかけで鯛網に参加しはじめたの?
今までの鯛網では、ご年配の方が大多数だったと聞いていたけど、
でも今日見ていたら、若い人たちもたくさん活躍しているみたいで」
「それ、色んなお客様から言われました。
若い人たちが意外に多くて、びっくりしたって」
吉平さんは、あははと快活に笑い、そして続ける。
「きっかけは広報だったんです。
新聞に入ってた福山市の広報を、去年たまたま見て。
そこで鯛網ガイド募集っていうのを見つけたんです。
で、その年の夏にロサンゼルスに行く予定だったので、
その前にちょっと地元のことを勉強しようと思って。
そんな気持ちで応募しました」
「今は鞆に住んでいるんだよね?」
「いえ、わたしは赤坂。東京のじゃなくって、
備後赤坂のほう(笑)。そこから、
鯛網があるたびに通って来ています」
「鞆の人かと思った」と、ぼくは驚いて言う。
「いえ、鞆の人は、今年のガイドさんでは
ひとりしかいないです。去年もひとりでしたね。
昔は鞆の人が多かったんだと思いますけど。
今はもう外に働きに行っちゃって、
あんまり人がいないんです」
去年から鯛網ガイドを始めた吉平さん。
ぼくは、その時の鯛網に対する印象を聞いてみた。
「実はその時初めて見たんですよ、鞆の鯛網。
福山にいたのにね。近いと意外に見に行かないですよね。
正直言うと、もっとちゃっちいと思ってたんですよ。
でも、実際見てみると、本格的に網引いとるーと思って。
漁師さんって意外とかっこいいって」
「あはは。それで楽しかったから、今年も?」
「いえいえ、今年はやるつもりはなかったんですよ。
でもね、先輩に今度研修あるから来ないって誘われて」
「研修って、鯛網のガイドの研修?」
「そうそう。アナウンスの仕方だとかの研修があるんです」
ぼくらは出てきた料理を楽しみながら、話を続ける。
「やっぱり、鞆が好き?」
と、ぼくはいささか、漠然としたことを聞いてみた。
「もちろん、好きですよ。町の雰囲気とか、
住んでる人だとか。みんな優しくて、おせっかいで」
その口調には親しみがこもっている。
「漁師さんなんて、ほんと、おせっかいです。
杖とか突いてる腰の曲がったおじいちゃんのお客さんで、
船に乗りたそうにしてる人なんかいると、
『乗せちゃれ、わしが掴まえといてやるけえ』みたいな感じで。
あと、船に慣れない女性のお客さんの代わりに、
赤ちゃん抱いててあげたり。わたしが『お孫さん?』なんて聞くと、
『お客さんの子じゃい』ってね。
ほんと、すごいおせっかいなの」
そして、吉平さんは笑いながら続ける。
「あと、鯛網の格好して町中歩いてると、
知らない人から『ねえちゃん。がんばれよ~』みたいに、
声掛けられるんですよ。知らん人から!
最近ではみなさん顔覚えてくれて、
バスの運転手さんなんて、バス停じゃないとこで拾ってくれる。
『ねえちゃん、乗りんさい』とか言って」
そして、吉平さんは、笑顔で言う。
「みなさん、ありがとうございますって、
ほんとうに、そう言いたいです」
「つながり」の糸を、
わたしも紡ぐ
鯛網の長い歴史を継承するということ
「ほんとうは、去年で鯛網ガイド、
辞めるつもりでいたんですけどね」
と、吉平さんは言う。
「直前になって先輩が続けられなくなったから、
吉平さん、お願いします、みたいなこと言われちゃって」
「それで、わたしが受け継ごうって?」と、ぼくは聞く。
「いえいえ、最初はすごく困りましたよ。
ちょっと待ってよ、って」
吉平さんは「でもね」と言って続ける。
「ある朝、渡船場で売店のおばちゃんと話をして、
その時から、わたしの鯛網への意識ががらっと変わったんです」
そうして、吉平さんは、鯛網についての想いを物語る。
「網の揚げ方について、今年から伝統の
『ちがいもどし』という方法が再現されるようになりました。
去年まで網をしぼる時には、親船同士、舳先を
軽く合わせるぐらいで、そうしてすぐに網を揚げていました。
でも、これはあくまでも簡易的なやり方なんです。
それに対して、今年再現された『ちがいもどし』というのは、
一度舳先をぐっと交わらせて網を重ねて、それから改めて、
船体を平行に戻していきます。
この方法を採ると、もちろん、技術的にも難しくなりますし、
それだけ人手も要ります。それでも今年からちゃんと、
従来の方法でやりたいっていう話になって。
そんな話を耳に挟んではいたんです。でも、わたし、
見たことがないので、よくわからない。
渡船場のおばちゃんに、よくわかりませんって、
そんな話をしたんです。で、わたし驚いちゃったんですけど、
その渡船場のおばちゃんも昔はガイドさんだったって言うんですよ!
そして、そのおばちゃんが、わたしの直接の先輩に
仕事を受け渡していて……。
ああ、長い年月をかけて受け継がれてきたものの中に
自分がいるんだって、その時に、そう思ったんです。
それまでは、アナウンスで、三八〇年前から伝わった、
とか言ってましたけど、ただ読んでるだけって感じだったんです。
でも、そのおばちゃんの話を聞いてからは、その月日の長さと、
それに関わった人の多さ、それに、それを受け継いでいる人たちの
想いを、初めて……こんなに大変なことだったんだって
思い知ったんです。 それで、先輩に『来年もがんばります!』
ってね。あはは」
感動や物語りは人を動かす。それはよくわかる。
でも、そのおばちゃんの話だけで、ここまで心が
動いたわけって、いったい何だったんだろう? 吉平さんは言う。
「そういう先輩たちから、昔の鯛網の話を
よく聞かせてもらうんですけど、わたし、そこから、
何と言うか、言葉とかじゃなくって、もっと感覚的な
『つながり』みたいなものを感じたんです。
今までは、実際の『物』しか見えてなかったけど、
その時は、たしかに『つながり』の糸みたいなものを
『感覚的に見た』という感じ。わたしの生きてきた年数なんて、
鯛網の歴史と比べたら豆粒のような年月だけれども、それでも、
鞆の人たちが大切にしてきたものを、
わたしも受け継いでいきたいって、
そう思ったんです」
吉平さんの目の力を見て、ぼくはこの鯛網の伝統が、
また一世代、正しく継承されたんだと、確信した。
ぼくに鯛網の伝統の何がわかるというわけではないのだけれど、
たしかに、吉平さんの目を見て、そう感じた。
鯛網の糸は、繋がっていく
確実に育つ若い世代 鯛網の明日を豊かに紡ぐ
ぼくは吉平さんの話を聞いて、
鞆の浦の鯛網が歩んできた、
三八〇年という歳月について考えを巡らしてみた。
先の大戦で一時的な中断を余儀なくされたこともあったが、
その困難を乗り越えて、戦後に復活を果たした鞆の鯛網。
こういった昔ながらの伝統漁法を今日に残すのには、
もちろん、様々な苦労があったことだろう。
でも、吉平さんのような若い世代が、確実に育ってきているのだ。
伝統に心を動かし、それにかけがえのない価値を感じて、
そして、実際の行動へと移すことができる、若い世代が。
鯛網の最中、漁師さんは「腰みの」を巻く。
その「腰みの」も、実は伝統的な製法で作られていて、
現在、その技を正統に継いでいる人は、
ひとりしかいないという話だ。
その「ひとり」は、ご高齢の漁師さん。
温和な表情に刻まれた深い皺の中には、
鯛網の歴史がそっくりと保存されている。
鯛網の伝統の「糸」は、これから、
どういうふうに紡がれていくのだろう。
ぼくも陰ながら、その「糸」の
末永い「つながり」を、祈りたいと思う。