武蔵国分寺 ご住職 星野亮雅さん
太古の「想い」が現在(いま)、花開き
人々のこころ繋ぐ「絆」となる
東京の中の異空間
国分寺だから、感じられるもの
国分寺駅から南に歩いていくにつれ、徐々に音が消えていく。
散歩道を通り抜け、なんだか今までと世界が違う。
東京でいて、東京でないような。こんなに自然が多かったんだ。
そして、足を進め、私は武蔵国分寺、門前の楼門をくぐった。
左右に「武蔵国」「国分寺」と記された門を通り抜け、
武蔵国分寺の本堂へと向かうと、その途中で、
ご住職・星野亮雅さんに出逢った。
目がなくなるような笑顔、とても優しそう。
ご住職さんは、私を客間に案内してくださった。
そうして、静かに時が流れる空間の中で、
私はゆるり、そのお話に耳を傾けた。
“とくべつ”な武蔵国分寺
数ある“国分寺”の中から―
市の名前でもある“国分寺”。
中学生、高校生のときに日本史で勉強した記憶がある。
奈良、聖武天皇の時代、国家は、天災や伝染病の流行に悩まされていた。
聖武天皇はそんな国家を仏教の力で鎮護しようと、
全国に「国分寺建立の詔」を出したんだった。
そして、全国に国分寺が建てられた。
でもなぜ、数ある国分寺の中で、この西東京に位置する「国分寺市」が、
現在までその名を受け継いでこられたのだろう。
「聖武天皇の詔の中に、国分寺建立に最も好い条件というのが
ありまして、全国に60カ所以上ある国分寺の中でも、
ここ、武蔵国分寺は特に立地条件がぴったりだったんですよ」
そう語っているうちに、ご住職さんは、口元を綻ばせる。
なんとも、温厚そうな、えがお。
「その条件とは、国分寺建立について、
『国府に近すぎても、遠すぎてもいけない。
さらに、東には、川があること、西には、道があること、
南には、国府が程よい距離にあること、北には、山があること』でした。
武蔵国分寺はというと、東には、滔々(とうとう)と流れる川があり、
西には、南北を通る東山道武蔵路があり、南には、広大な平地があり、
国府(現在の府中)が近すぎず遠すぎず、北には、昔は山があり、
東西に連なる国分寺崖線がありました。
これらの理由から、
武蔵国における国分寺建立の適地として、この場所が選び出され、
現在まで、その名を保ち続けることが出来たんです」
なるほど。その昔、全国に60カ所以上もあった“国分寺”。
その多くが“国分寺”の名をなくしていった中で、今なお
その地名を失うことなく、今日に伝え続けている“国分寺市”、
その “とくべつ”。
ご住職さんのお話を伺っているうちに、
何だか私まで、誇らしく思えてきた。
受け継ぐ心
継がれる―国分寺遺伝子
頂いた名刺の裏を見てみると、「福祉協議会」の文字。
私は興味を覚えて、ご住職さんに伺ってみる。
「ここに『福祉協議会』ってありますが、
住職という役職を担いながら、務められているんですか?」
「お声がかかり、最初は何も分からず始めたんですよ。
ただただ、聖武天皇の教えを継ごうという想いからです」
聖武天皇?
そんなにも前の天皇の想いを受け継ぐとは…。
私には、歴史の教科書でしか見たことがない名前。
1200年以上も前の天皇の教えを受け継ごうという想いは、
生半可なものではない。
その聖武天皇の教えとは、一体どういったものなのだろう。
「『広く蒼生のためにあまねく景福を求む』
大勢の国民のために、多くの幸せを願う、です。
聖武天皇の人びとを思うお気持ち、
その志を継承する国分寺の住職としては、
地域のためになるお仕事へのお誘いを、
無碍(むげ)にお断りするわけにはいきませんでした」
“国分寺遺伝子”、素晴らしい。
住職さんの強い心意気が伝わってくる。
「何もわからずに始めた訳ですから、
まずは色々なとこを学ぼう、と思いまして。
3年程、ほぼ毎日、時間があるときは、
お声をかけて頂いた方の元を訪れ、
食事を共にし、その中から、
様々なことを学ばせて頂きました。
そのお蔭さまで、『社会福祉協議会』の会長を、
12年間務めさせていただきました」
わ〜、12年間も! すごい。
半端な想いで、できることではない。
聖武天皇の意思を受け継いでいる、伝承する心、素晴らしい。
聖武天皇の想いを背負っているという確かな自覚が、
ご住職さんのやわらかい笑顔の内に、静かに、
しかし、力強く宿っているように、私には映った。
今なお息づく150の植物
万葉の想いを宿す植物園
「せっかくですから、万葉植物園も是非見ていってください」
そう言ってご住職さんは、私を万葉植物園に案内してくれた。
「万葉植物園の万葉とは、『万葉集』の“万葉”なんですけどね、
私の父が住職を務めていたころに、ある歴史考古学者が訪ねてきて、
『ここ武蔵国分寺の境内の中だけでも、万葉集に載っている植物の50種類は、
もうすでにあります。そして、その他の100種類を集めれば、
万葉集に登場する、すべての植物が集ります。
それらを集めてみては、いかがですか?』
と、私の父に言ったんです。
すると、父は、もともと興味があったのでしょうか、
それ以降、植物収集に、俄然、没頭し始めたんですよ」
ご住職さんは、そう言ってにっこり微笑み、続ける。
「『武蔵国分寺』の万葉植物園ですから、父には、是非、『武蔵国』、
つまり、現在の東京都全域、埼玉県全域、川崎、横浜の中から集めたいと、
そう思ったんですね。 一つひとつ、集めていきましたが、写真など、
今のカラーのものとは違い、白黒で鮮明ではなかったので、
見つかった植物が、万葉集の中の植物なのか自分では判断出来ず、
採取してきては歴史考古学者に見せて、を繰り返していました」
なんとも地道な作業。そんな作業を、ご住職さんのお父さんは、
どんな想いでやっていたのだろう?
「父は、万葉集のころの人びとが、どのような環境で生きてきたのか、
どんな花を見て、歌を詠んだのかを、今の人びとに伝えていきたいという、
ただただ、その一念で植物採集を続けていったのでしょうね」
ここでも、”伝承”の想いが。こういった、
たくさんの“想いの糸”が結ばれて、こうして今、
この万葉の植物たちと、私は出逢えているんだ。
そう思うと、じんわり胸があたたかくなった。
絆
“花”が、つなぐ
「4月には『花まつり』、『万葉花まつり』が開催されます。
花まつりとは、お釈迦様を出し、お釈迦様の誕生を祝う宗教的な行事です。
普通、お釈迦様をお祝いするのは、年に1回、『花まつり』だけですが、
ここ武蔵国分寺では、万葉植物園があることもあり、
『万葉花まつり』という祭も開催されます。
通常は、年に1回きりの花まつりなのに、
ここでは、年に2回もお釈迦様を見られるんですよ」
あははと微笑む、ご住職さん。2回も祝える―、お得な気分だ。
「そして、そこでは、『甘茶』というものが振舞われます。
『甘茶』とは、”紫陽花(あじさい)”なんです。
若い葉を蒸して揉み、乾燥させたものを
煎じて作るんですよ」
へえ~。
紫陽花を使った飲み物、とても興味がわく。
いいな。飲んでみたい。
「この甘茶を飲みに、市民の方々が集まって、
そうして、交流を深めていって頂ければと思ってやっています」
甘茶の甘さで、集まった人びとも、
みんな笑顔になって、交流も深まりそう。
そんな市民の方がたの、なごやかな集いを想像しながら、
私は尋ねる。
「そういった活動を通して、今の国分寺の街に住む人たちに、
伝えたい“想い”ってありますか?」
「そうですね、『絆』を大切にしてほしい、ということでしょうか。
街全体が絆で結ばれれば、もっと良い、まちができると思うのです。
そのために、『一人一人』が、国分寺に対する“想い”を
持ってくれればと思います。
そして、市民の方々には、“武蔵国分寺”は史跡としてのみ
存在しているのではなく、現代のこの街と共に歩み、“今”と
寄り添いながらあり続けている、ということも知ってほしいですね」
“花”を通して、人が集まり、そうして、そこから生まれた“絆”が、
どんどん深まっていってくれたら、私も、うれしい。
伝承の心
今の世まで脈々と―
お話が終わると、ご住職さんは、門まで見送りに来てくれた。
私は、ご住職さんにお礼を言って、武蔵国分寺を後にした。
振り返ると、また、にっこりと、人を幸せにするような
笑顔を送ってくれた。とても温厚な、その笑顔とお声とで、
私も穏やかな幸福を分けてもらったような気がした。
聖武天皇の精神を受け継いで、「住職」という役職を、
また、市民のために活動する「社会福祉協議会」のお役目を
長年に渡り、務めてこられて―。
聖武天皇、先代から受け継いだ”想いの遺伝子”は、
どこまでも、強く、しなやか。
これからも、そのDNAが受け継がれていくことを、願う。
帰り道、木漏れ日差す道を、清々しい気持ちで、通り抜ける。
行きで通ったはずなのに、なんだか少し違って見えた。
単なる散歩道だと思っていた道には、
とてもたくさんの歴史と人の“想い”が、積もっていた。
その“時”と“想い”が、現在まで伝承されている―。
色んなところに歴史が溢れ、それを知ることによって、
またひとつ、国分寺に親しみを抱くことができた。
東京の中の異空間―、とってもいいな。