「会津東山芸妓」八重牡丹 まり若さん
会津でからりと、昔ながらに芸妓と遊び
そうしてたしなむ、“大人の小粋”
愛でられて輝く、会津の華
「東山芸妓」 伝承の物語り
山間の渓流に沿って展がる、会津の奥座敷、東山温泉。
千三百余の長き歴史を有する、この温泉境。
その明媚な地にあって、多くの名士や観光客に愛されてきた、ひとつの文化がある。
「会津東山芸妓」。
江戸の頃より、脈々と受け継がれてきた、この会津東山の芸妓文化。
艶やかにして、晴れやかな、愛でられて輝く、会津の華―、
会津東山芸妓」の、伝承の物語り。
からんころんと、芸妓が通る
次代に繋ぐ、「おもてなし」
からんころんと、下駄を鳴らし、芸を売りて身を立てる、やれ、芸妓衆が、道を行く―。
島田髷に、白粉化粧、着物姿も艶やかに、その歩くさまも、また、やわらかく。
芸妓らは、抱え元である置屋に籍を置き、求めに応じて、旅館や料亭に出向いていく。
下は十八の頃より、姐さんに付き、その立ち居振る舞いや、技芸を眺め、己の範とし、学びとしていく。
襖の開け閉めや、お辞儀といった、何気ない所作こそ、芸の麓。
日々を怠ることなく、営々と―。
そうして、姐さんから次代へと、受け継がれていき、今日にある。
「おもてなし」の心技を伝える、誇り高き、芸妓の文化。
粋な大人のたしなみ
東山芸妓、伝統の遊び
湯けぶり昇る、会津東山の温泉街に、明治以前から、綿々と代を重ねてきた「会津東山芸妓」。
昭和三十年代には、最盛期を迎え、当時は、二百名を超える芸妓衆を抱えていたという。
しかし、それ以降は、置屋も芸妓も、その数を徐々に減らし、現在では、
二十数名の芸妓衆が、その粋な技と文化を、今に伝えている。
芸妓衆は、東山温泉の宿泊客を中心に、艶がありながらも、からりと明るいお遊びで、
陽気に、洒脱に、「おもてなし」。
立方は、美しく踊り、地方は、三味線や、鼓などの鳴り物で、伴奏を添える。
そのほか、邪気のない酒飲みの、大らかな遊びが、さまざまあって―、
さてそれは、遊んでみての、お楽しみ。
ともあれ、お座敷遊びは、いつの世も、粋な大人の、洒落たたしなみ。
会津に守られ
芸妓衆の努力、報われんことを
芸妓と、お座敷遊びに、からりと興じる―、そういう鷹揚なお客は、
現在、全国的にも、確かに少なくなった。
ありし日のように、旦那、お大尽がいる時代でもない。
しかし、そんな中でも、この会津東山の地で、「東山芸妓」の文化が、
今に残されているのは、会津という地域の支えに依るところが、大きい。
地元・会津の人たちが、どうせ飲むなら、伝統ある東山の芸妓衆と飲もう、と、
贔屓にしてくれる、その、おかげさま。
しかし、それはつまり、「東山芸妓」が、会津の守るべき文化として、
会津の志ある人びとに、愛されているということ。
芸妓衆一人ひとりの、ひたむきな努力は、会津人が抱える、大きな郷土愛によって、
あたたかく、包まれ、報われる―、
そう、これからも、きっと。
芸妓文化の伝承者
「八重牡丹」まり若、快活に学ぶ
左の指先で着物の褄を取りながら、右手に持つ扇子を、柔らかく、ひらりひらり。
「会津東山芸妓」の、置屋のひとつ、「八重牡丹」に籍を置く、
芸妓・まり若さんの、お座敷での踊りを見る。
芸妓文化の伝承者としての、その凛と洗練された、舞いの美しさ。
一方で、その生来の明るく快活なお人柄も、ふわりと、やさしく匂い立つ。
まり若さんが、芸妓をはじめた、きっかけは―、
妹さんが、まず、この芸妓の扉を叩き、そして、その晴れの姿を目にした時に、
瞬間的に、憬れて。
その憬れひとつで、この世界に入り、そして今、お座敷での多くの出逢いを、愉しんでいる。
人に触れ、芸に触れ、学びに満ちた、この環境がありがたくて、
そう言って笑う、まり若さんの笑顔は、清々しい。
文化に生かされ、文化を生かし―。
芸妓さんの、すがお
ぱちりぱちり、切り替えて
伝統ある芸妓文化の伝承者も、普段着になれば、ごく普通の、朗らかな女性。
プライベートでは、スノーボードもするし、興味を持ったら、持ち前の瞬発力で、
まずは、何でもやってみる。
もちろん、カラオケにも行くし、晩酌だってする。当たり前と言えば、当たり前のこと。
芸妓に対する格式張ったイメージは、ただの、イメージ。
色眼鏡を外して、眺めてみれば、芸妓さんは、案外に自由で、ざっくばらん。
着物、普段着と、身に纏う衣を替えることで、ぱちりぱちり、
「芸妓」と「プライベート」を切り替えて―、
大事なのは、そのけじめだけ。
そして、普段、綺麗でいるために、特別何をするではないが、
美しいものを、美しいと思える感性、そればかりは、たいせつに、胸に抱いて。
西川流名取 西川籐八
深き技を、その背に宿し
まり若さんは、この芸妓名のほかに、もうひとつの名前を、持っている。―西川藤八。
日本舞踊における、五大流派のひとつ、西川流のご宗家より、
技能が達したとして頂いた、誉れある、名取名。
日本舞踊の名取を目指すことは、芸妓に、必ずしも求められることではないが、
これは大いに、己の心意気の問題だった。
名取の襲名披露、その式は、絢爛にして豪華な、一世一代の晴れ舞台。
人間国宝・西川扇蔵より、芸名を授かったという、その意味を噛み締める。
「西川藤八」の名は、誇りであり、心構え。もはや、恥となる芸は、見せられない。
名取となり、得たものは、さらなる精進の糧としての、太い太い、背骨だった。
伝承者の美意識、透徹たり。
「東山芸妓」と、小粋にあそぶ
触れられ続ける文化でありたい
「会津東山芸妓」の、伝承者・まり若さんが願うこと。
―残す、ということ。
かつての日本人が、伊達に、粋に愉しんだ、この芸妓文化を、
会津の地から、失くしたくない。
そのためには、地域の支えを頼むばかりではなく、芸妓自らも、
会津のために資する努力が必要となる。
例えば、積極的に、美しい会津弁を使っていこう。
会津の地域性を、より強く、アピールしていこう。
そして、若い人たちも、固く構えずに、もっと気楽に、利用してもらいたい。
文化は、触れられることで、命を延ばす。
往事の日本人が持っていた、気持ちの良い、磊落さと、
粋な妙味を解する、ちょっと知的な遊び心。
今の日本人だって、きっと愉しめる―、艶あり、笑いありの、
からりと小粋な、芸妓遊び。